2005年11月9日水曜日

運営委員会名簿

代 表  野村 信   東北学院大学教授

総主事  田上雅徳   慶應義塾大学教授

書 記  岩田 園   上智大学

会 計  竹下和亮   国際基督教大学研究員

委 員  菅波和子   元日本大学教授

委 員  鈴木昇司   早稲田大学・立教大学非常勤講師

委 員  関口 康   日本基督教団教師

顧 問  久米あつみ  元帝京大学教授

2005年11月7日月曜日

宗教改革から近代社会へ

基礎知識 「魔術からの解放」

【魔術とそこからの解放】

魔術とは、元来メディア人のMagiという部族で行われていた儀式から来たと言われる。自然現象や人事の幸い・災いを支配するのはいろいろな超自然的な霊であるという考えから、種々の文句、儀式、供儀、難行などのいわゆる秘術(まじない)によって、それらの霊と交渉し、人間に奉仕させようとする態度を一般に意味する。

魔術(magic, Zauber)は、諸霊をあやつるという意味において、「アニミズムの技術・兵法」とも考えられ、宗教の、ひろくは文化の原初形態とみなすことができる。ギリシャの哲学史の時代から、ピタゴラス学派(BC5,4)の数論は一個の魔術的な思想であったし、プラトンは神々と人間との中間存在たるデイモンを考え、その学徒クセノクラテスはこれを悪魔と理解した。中世では「黒魔術」や「白魔術」などが流行したが、悲惨な結果を長く及ぼしたのが「魔女信仰」であった。ルネサンス期の時期には魔術的・秘術的な思想において近代的自然観の萌芽があるが、実験科学的方法でさえ当初は一個の魔術であった。そのような点では、近代的合理主義によって、ヨーロッパ全体は「魔術からの解放」が起こったと言える。

この「魔術からの解放」という用語を使用したのは、マックス・ヴェーバーであった。彼の著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で以下のように記す。

「予定、ないしは選び」の教説が、その壮大な帰結に身をゆだねた世代の心に与えずにはおかなかった結果は、何よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。(中略)誰も彼を助けることはできない。牧師も助けえない、―選ばれた者のみが神の言を霊によって理解しうるのだからだ。聖礼典も助けえない、―聖礼典は神がその栄光を増すために定め給うたもので、したがって厳守すべきだが、神の恩恵をうるための手段ではなく、主観的にただ信仰の「外的な補助」―となるにすぎないからだ。また教会も助けえない、―真の教会に属しないものは神から選ばれた者ではないとの意味である。最後に、神さえも助けえない、―キリストが死に給うたのもただ選ばれた者だけのためであり、彼らのために神は永遠の昔からキリストの購罪の死を定めてい給うたのだからだ。(多少修正)

このこと、すなわち教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したということこそが、カトリシズムと比較して、無条件に異なる決定的な点だ。世界を「呪術(魔術)から解放」するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち、古代ユダヤの預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの「呪術(魔術)からの解放」の過程は、ここに完結をみたのだった。(156頁)

もう少し解説を加えよう。一体、中世がなぜ魔術化されていたのだろうか。それは、すなわち人類は長く魔術的な世界に捕らわれて来たと言えるが、中世の時代は、特に魔法にかかったかのような世界であったため、この世界を「魔法の庭」と言ったり、また「霊的インフレーションの時代」とも呼んだのである。すなわち、神に救われるために補助となると教えられ、天国にいくために有効であるとされる手段や媒介が、あまりにも多く作り出され、人々は、一種、「取り憑(つ)かれたような(魔法にかかったかのような)状態」にあったと言い得るのである。以下にその様子を記そう。

【霊的インフレーションの時代】

中世後半期における人々の宗教生活について解説すれば、それこそ「夥しいほどの具象的・視覚的な宗教世界が広がっていた」と表現できよう。以下に例をあげよう。

1. 奇跡を行うこと 庶民たちは聖人たちに願うと奇跡が起こると信じていた。実際、聖人に列聖される人は多くの奇跡を行ったことになっている。たとえば、アンジューのルイ(1274-97)が死んだ後に作成された『奇跡の書』には、彼が221の奇跡を行ったとされ、そのうちの199例が病気の癒しに関係していた。トマス・ド・カンティリュプ(-1282)には、死後5年後に470の奇跡が帰せられた。当時、宗教改革者カルヴァンは、プロテスタントの新しい教えが人々の中に知れると、すぐに反対者から「奇跡によって(正しい教えかを)証明してみろ」と悪口を叩かれたことを書き留めている。

2. 聖人と聖遺物、聖職者の数の増加 1300年から1500年の200年間に211人の聖人が列聖されたが、あまりに多く作り過ぎたと言われた記録が残っている。また人々は、聖人の遺骨や衣服などには奇跡的力(御利益)があると信じてこれを拝んだ。また聖職者の数が非常に多く増え、下級聖職者ともなれば、まるで「現代のどこかの国の官僚(公務員)のように」増えてしまい、「ならず者のたまり場」と嘲笑されたほどである。

3. 巡礼 人々はこぞって有名な巡礼地や聖人の遺体のある所へと巡礼をした。それはまるで行楽地へ向かう人々の集団のような様子を呈した。途中で手厚い接待を受けたり、施しもあり、さらに浮浪者も便乗して、人々は取り憑かれたように移動した。また鞭打ち苦行の集団が各地で大量に発生し、既成の教会に不安を与えた。

4. 夥しい聖画像 あまり多くの聖画が作られた。平板、カード、布地、本の挿絵、壁画、木彫の彫刻、さらにモノグラム(円盤のお札)などが大量に出回った。また通りや橋、辻では、聖クリストフォロスの聖画が掲げられていた。急速な発展が始まった11世紀には、これに批判的だったベルナルドゥスがむしろ感嘆し、さらにT・アキナスは積極的に神学による基礎付けをなした。(前期のテキストでも書いたが)英国司教のぺコックは、「聖画像がどこにでもごろごろしているほど多い」と嘆いた。

5. 煉獄の強調による取り成し 中世に思想的に最も人々に影響を及ぼした思想は、煉獄の存在であった。1274年のリヨン会議で煉獄の教理が定められると、信者たちの功徳によって、教会が苦しむ死者の霊魂に助力を与えることが出来ると考えられ、これは「その後、恐ろしい力で生きている人々の心をつかんだ」。自分の霊魂と身近な人々の霊魂のために祈り、善行を積み、功徳の蓄えが多ければ多いほど、死後の煉獄での苦しみが減少するからである。そのための免償や執り成しの祈り、ミサは金銭によって買うことが可能となった。ブランデンブルク家の司教アルブレヒトは、3900万年分の免償を貯め込んだほどである。

【宗教改革が魔術からの解放を引き起こした理由】

これは、実に簡単に説明できる。すなわち、宗教改革は、上記の5つについて全て否定したからである。ただしキリスト教宗教そのものまで否定したのではなく、キリストの死と復活こそ一度の、二度と繰り返さない最大の奇跡と信じ、キリストに集中したに過ぎない。そこには「聖書のみ」、「信仰(恵み)のみ」の二大基本原理があった。さらにカルヴァン派は、「予定(選び)」によって魔術世界の残滓を捨て去った。

「世俗内禁欲」という言葉はドイツの碩学(せきがく)Max Weberが用いた言葉である。本講義においてこの用語はキー・ワードであるので、しばらく「禁欲」、ないしは「禁欲主義」という言葉と共に、「世俗内禁欲」について簡単に解説しておこう。

1. 「禁欲」とは、理性や意志により、人間の欲望を抑え、時には肉体を苦しめて、倫理上、宗教上の目的を達することをいう。方法としては嗜好物の禁止、独身閑居、山中荒行などさまざまであるが、これが一定の生活態度、ないしは理論的態度をとると「禁欲主義」となる。なお、卑近な例をとれば、スポーツの選手が運動能力を高めるために、禁欲的な生活を実践することや、大学入学、資格習得などの受験者が禁欲に近い「自己節制」をするのも広義のそれにあたる。

「禁欲」という言葉の由来はギリシア語のaskesis(訓練) と言われ、動物的自然性と人間的理想性(理性)とを分けて、前者を悪自体または悪の根源とする二元論にもとづき、肉体的、感性的、世間的欲望を禁止することによって「道徳の理想」を達成しようとする。キニーク派、ストア派、新プラトン派、中世キリスト教の道徳、ショーペンハウアー等、肉体を悪と見て、苦行を要求する傾向がある。なお、カントは自由の意識において自己を道徳的に維持するための道徳的禁欲を説く。

2. キリスト教における「禁欲」は、本来聖書から派生したものではなく(後述)、もっぱら修道院において追求された。修道院は、「清貧」、「貞潔」、「服従」をモットーにして、日に幾度もの宗教儀式の実践や瞑想、また労働(知的労働と肉体労働)、真夜中の起床などを行った。これは、神に最も近い、徳の高いと考えられる人間的完成の追及を目指したものであった。これは換言すれば、「肉体と精神の浄化、聖化」、あるいは「霊的神秘感」を得ることを追求し、逆に「あらゆる物質的・肉体的な欲求を生じさせる可能性」を退けるために、質素な身なり、食事の制限、性欲の充足放棄(独身制)などを行ったと言えよう。

3. 宗教改革者たちは、修道院制を廃止した。これは、修道院に入れば神に近づくことが可能であるとした思想(功績思想)に反対したためであったが、「禁欲」そのものを否定したのではなく、むしろそれが追求さるべき範囲を拡大し、それによって一層禁欲を徹底したというのが真相である。というのは、宗教改革者は「禁欲」を修道院という、世俗から切り離された場所においてではなく、世俗の中で、すなわち世俗的生活と日々の誠実な職業労働の只中で追求さるべきものとしたからである。これが、ヴェーバーやエルンスト・トレルチのいう世俗内的禁欲(innerweltliche Askese)の成立であって、禁欲の解消より、むしろその聖書的精神を強化した。この「禁欲」を特に以下「アスケーゼ」と呼ぶ。

4. 同じ宗教改革者間においても、ルター派とカルヴァン派のおける立場の相違はこの「アスケーゼ」においても相違として現われることになった。ヴェーバーは、優れた宗教家が自己の救いを確信するのは、自己を神の力の「容器」と感ずるか、その「道具」と感ずるかのいずれかであると言い、前者の場合は神秘的な感情の培養に傾き、後者は禁欲的な行為に傾くとし、ルターを前者、カルヴァンを後者に近いとしている。こういう観点からすれば、カルヴァン型にだけアスケーゼは成立することになるが、ヴェーバーがその場合考えているのは、カルヴァン派にみられる組織的能動的なアスケーゼなのである。

これに対して、トレルチはルター派のように神秘的傾向のつよい場含にもアスケーゼは成り立ちうるとする。しかしその場合は、この世に属する一切のものをあげて、神の栄光のための手段として組織化しようとする能動的なものはみられず、むしろこの世の苦難を忍耐をもって受け取り、時としてこの世に属するものを神の賜物としてそのまま受け取ることはあっても、この世に積極的に立ち向かうことはなく、来世の祝福に対する究極的希望を根底にもつという受動的なアスケーゼである。

5. さらにプロテスタント圏内においては、アスケーゼは、ピューリタンにおいて独特な仕方で成立する。この点はヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において解明しているとおりである。ピューリタンのなかでカルヴァン主義の影響を受けた所では、予定の教理が彼らのアスケーゼを促進する強烈な動機となった。

そもそもイギリスのピューリタニズムはドイツの敬虔派を含めて、広義の敬虔主義といえるが、その特徴の一つは、救われていることのしるしを「聖潔な生活や宗教的な体験の中」に求める点にある。そこから救いの確証を得ようとして聖潔な生活に励むという可能性が出てくる。カルヴァンの予定説を信じたピューリタンたちは自己が滅びに定められているのではなく、救いに定められていることの確証を得るために、「組織にまで高められた聖潔な生活」を追求するようになり、「信仰によって義とされる」という立場に立ちながら、事実は善行によって義とされるというのと同じような外観を呈するに至ったのである。

6. 旧約聖書においては、禁欲的修行が語られることはほとんどない。紀元前のヘレニズム宗教の中には、徹底的に現世を否定する禁欲主義を特徴とするものがあったが、ヘブライ人は創造の教理(天地創造)の強い影響下にあって、これを受け入れなかった。

新約聖書では、イエス・キリストの生き方や教えの中には現世否定的な要素と現世肯定的な要素とが、共に含まれている。主イエスの教えの中で禁欲的に響くものは、この世の富や性的なことについての秩序の破戒、神との関係を阻害するものに対する警告である。人間は、神の国のしるしを鋭く見分けなければならないこと、またそのしるしを発見したときには機敏に行動しなければならず、そのときには愛着を断ち切るために苦渋にみちた決断を強いられると考えていた。イエスの禁欲主義は経験的なもの、実際的なものであって、形而上学的なもの、二元論的なものではない。神の国を待つ終末論的な性格に照準が当てられている。新約聖書全体として見ると、「肉」とは罪に染まる可能性を持つもの(そして罪に陥ることが確実なもの)と見なされているが、それ自身において汚れたものとは見なされていない。それは贖われる可能性を持つものである。パウロは徹底的二元論に立つ思想家と解釈されても仕方のないような概念を用いているが、彼自身はそれを二元論的な意味で用いてはいない。しかし、新約聖書の記事のなかには、全体からそれだけを取り出して、一面的にいわゆる「禁欲」に利用される可能性を持つものもある。

基礎知識 「修道院制の廃止:世俗内的禁欲」

<中世社会を支えた修道院>

1. 中世末期までのヨーロッパ社会の大多数を占める一般民衆にとっての、目に見えるシンボルは、教会と修道院であり、ここに人々の心の支えと望みがありました。民衆の子供たちでも利発な子供は、修道院で学び生活し、修道院や教会に仕える生涯を送りたいと願ったものです。教会は人々が礼拝をしに日曜日に集まってくる所であり(1) 、一方、修道院は、ここで神に生涯仕えようと決心した人々が暮らすところでした。紀元後3、4世紀から始まったと言われる修道院が中世末期までどのようにヨーロッパ社会に文化的な影響を及ぼしてきたかをちょっと見てみましょう。

2. 修道院には、付属学校が設けられ、ここで教育した。(主に聖書とそのラテン語の学び)

3. 修道院で、古代の貴重な文献が書き写され、また書物が作られた。(写本室 scriptorium)

4. 絵画・彫刻などの美術品が保存された。

5. 合唱や音楽の演奏も行われ、音楽のさかんな修道院も現れた。

6. 巡礼者の通る道の近くにある修道院や、町の中にある修道院は、療養所、医療施設を設けた。

7. 毎日、時間を定めて、物乞いをする人々に食物を提供した。

8. 寄進や寄付などを受領し、また荘園では、民衆を雇い入れた。

中世をとおして、このような高度な文化社会を修道院は築いたと言えます。このような文化が形成されていく思想的な背景には、非常に強い倫理観と神に生涯を捧げる献身的な意識がありました。これを総称して、「世俗外的禁欲 autherweltliche Askese」と呼んでいます。

9. さて、宗教改革によって登場したプロテスタント(新教)の世界では、修道院に篭(こも)ることが、聖書の求めている信仰者の姿ではないと判断し、修道院制を廃止しました。しかし、修道院で行っていた倫理的生活や神への献身という精神は、大事にしたのです。そうすると、どうなるでしょうか。

すなわち、人々は、自分の生活の場で(2) 、この精神を実践していったのです。つまり、父親は、誠実に仕事をして稼ぎ(天職意識)、母親は家庭を守り(結婚の奨励)、両親は子供に熱心に教育を施そうと務め(両親の教育義務)、母語の聖書を読み(聖書翻訳)、聞かせ、町村の集会や連帯を広げ(共同体作り)、周囲に様々な公共機関を生み出し(公共機関の発達)、社会全体を秩序のある共有財産としていくことを心がけました。これを総称して、「世俗内的禁欲 innerweltliche Askese 」と呼びます。

その結果、いち早く、プロテスタントの信仰の広がる社会では、地域が活性化し、産業(資本主義)が発達し、中産(市民)階級の人々が多く広がっていくことになったのです。これが、近代社会をいち早く生み出す要因のひとつとなりました。(野村 信)

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(1) 教会は、人々の魂の救いのために様々な儀式(礼拝やお祭り)、結婚式、葬式など生活上の行事などを行いました。教会参事会(役員会)は、政治的な領域にも深く関わりました。

(2) プロテスタントは、「巡礼」も退けました。お参りをすることが、自分の救いの功績になるという考えが、非聖書的である判断したのです。その結果、人々は、「自分の生活の場」で、神に仕えることが出来ると受け止めたのです。それは、当然、今、過ごしている地元に関心が集中したと言えます。