〈講演要旨〉菊地純子「礼拝の構成要素としての詩篇、J. カルヴァンの場合」

2024年2月26日

 みなさまは、J. カルヴァンに、あるいは、改革派教会に伝承されているカルヴィニズムに、あるいはカルヴァン以降の社会へのそれらの影響に興味をお持ちだと想定してお話させていただきます。

 日本の中でこうした興味がいつからであったかは、すでに「日本におけるカルヴァン研究史」として扱われるべきテーマとなります。また、こうした長いカルヴァン研究により、現在私達に伝えられているカルヴァンの遺産は少なくなく、私のような学問の境界を越えて学び続ける者は、全貌を把握することは困難です。

 その上で、本日は、いまだに十分に共有されていないけれども、現在の日本の教会で共有すべきカルヴァンの遺産の一つについてご一緒に考えたいと願っております。以下に目次を示します。

 1. カルヴァンの礼拝観〜カルヴァン生誕記念祭から引き継いだ関心

 2. ローマ典礼から土台を得ているカルヴァン

 3. 最近の礼拝学の方向性と共有されていること

 講演会の日の午前中に設立される「日本カルヴァン学会」は、二つの学会の統合されたのですが、この二つの学会は2009年のカルヴァン生誕記念の礼拝と講演会を開催し、その報告書の中で、カルヴァンの礼拝観について多くを割いています(神学と牧会の研究所『神学と牧会 No.23』2009年 ISSN 0918-2438)。

 カルヴァンの礼拝観について議論するには、礼拝式文が重要ですが、本日は「礼拝式の中での詩篇の重要性に限って取り上げます。四つのポイントでお話します。まず、キリスト教の礼拝は、ユダヤ教が受け継いできた礼拝に基盤があります。そして初期から、毎回詩篇を用いることは今に至るまで少なからず伝承されていると言えます。けれども礼拝の中で、「読まれて」使われたのではなく、「旋律を伴って」あるいは「楽器を伴って」朗唱/歌われたことは、もう一度確認されてよいでしょう。

 その後のキリスト教の礼拝の歴史を概観すると、教会歴が整えられて言った4〜5世紀以降に詩篇が礼拝の中でもつ役割は「発展」していくことになります。

 その「発展」した礼拝に対して、疑問を持ち、<根源へ>がモットーの一つとして有名な人文主義の洗礼を受けたカルヴァンは、詩篇の言語である古典ヘブライ語を学び、ユダヤ教の聖書釈義も参照しながら礼拝改革を模索したため、「カルヴァンはユダヤ人か?」と当時揶揄されたほどです。その上で、礼拝の中の踏襲すべきものと破棄すべきものを選んでいったと言えます。具体的に形になったのはジュネーヴ詩篇歌と呼ばれる、礼拝で、すべての会衆によって歌われる詩篇の形です。

 外側に見えるこうした「改革」の底にあったのは、礼拝で「霊性」を中心に持ってくることであったと言えるでしょう。ルターの紋章と比べて広く知られているとは言えませんが、カルヴァンの個人紋章があります。アルファベットのIとCの間に右手に挟まれた心臓の絵が描かれていますが、「我が魂を 主よ、あなたに用意してこころから持っていきます。」と解釈されています。

 21世紀も四分の一が終わろうとし、伝統的キリスト教グループの力が弱まっている現在、最近の礼拝学では、カルヴァンの礼拝学を土台にして、「私達」の礼拝への批判を表現しています。①礼拝は私達の行為ではない。②礼拝は私達の一つの部分にだけ語り掛けているのではない。③礼拝は単に私達の生活の一部なのではない(Martha Moore Keish, “Refoemierte Liturgische Theologie”, S. 85)。

 みなさんとお会いして、学びを深めていくことを楽しみにしております。